2007-01-01から1年間の記事一覧

「選択本願念仏集」(17)

(15)六方の諸仏、念仏の行者を護念したまふの文 かくて念仏行者は六方の諸仏に護念され、現世・後世にわたり利益を得ることができる。

「選択本願念仏集」(16)

(14)六方恒沙(ごうじゃ)の諸仏、余行を証誠(しょうじょう)したまはず、ただ念仏を証誠したまふの文 弥陀・釈尊のみならず六方の諸仏も余行を証誠するようなことはせず、念仏の一行をのみ、まことの道であると証誠した。

「選択本願念仏集」(15)

(13)念仏をもって多善根(たぜんごん)とし、雑善をもって少善根としたまふの文 念仏は多くのめぐみを得る多善根・多福徳のもとになる善である。

「選択本願念仏集」(14)

(12)釈尊、定散(じょうさん)の諸行を付属したまはず、ただ念仏をもって阿難に付属したまふの文 釈尊は『観無量寿経』に静まった心でつとめる善(定善)と乱れた心のままでつとめる善(散善)を説き、阿難に対しては念仏の一行をのみ本願行として付属す…

「選択本願念仏集」(13)

(11)雑善(ぞうぜん)に約対(やくたい)して念仏を讃歎するの文 雑行を修する人にくらべ、念仏する人を讃めたたえる。

「選択本願念仏集」(12)

(10)弥陀仏来迎(らいこう)して、聞経(もんぎょう)の善を讃歎(さんだん)したまはず、ただ念仏の行を讃歎したまふの文 阿弥陀仏は経典を読誦する善をも雑行としてしりぞけ、ただ称名念仏の行のみ正定業とし、阿弥陀仏の願意にかなったものとして讃歎…

「選択本願念仏集」(11)

(9)念仏の行者は四修(ししゅ)の法を行用すべきの文 恭敬(くぎょう)修・無余修・無間修・長時(じょうじ)修という念仏者ととるべき態度を強調する。 素直なまことな心(至誠心)で、阿弥陀仏を深く信じ(深心)、浄土に往生したいと願う(廻向発願心…

「選択本願念仏集」(10)

(8)念仏行者は必ず三心(さんじん)を具足すべきの文 往生のためには、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、廻向発願心(えこうほつがんしん)の三心を具すべきこと。

「選択本願念仏集」(9)

(7)弥陀の光明、余行の者を照らしたまはず、ただ念仏行者を摂取するの文 弥陀の光明は余行の者は照さず、ただ念仏の行者のみ摂取することができる所以を明らかにする。

「選択本願念仏集」(8)

(6)末法万年の後に、余行ことごとく滅し、特(ひと)り念仏を留むるの文 末法一万年を経、他の教えが滅亡しても、なお念仏は百年この世に残り得る価値ある教えである。

「選択本願念仏集」(7)

(5)念仏利益の文 念仏による功徳と念仏の価値を明らかにする。

「選択本願念仏集」(6)

(4)三輩念仏往生の文 往生行として念仏以外の余行を説いた理由を明らかにする。

「選択本願念仏集」(5)

(3)弥陀如来、余行をもつて往生の本願とし給はず。ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文 称名念仏は阿弥陀仏がいっさいの余行を選捨して往生の本願としたものである。

「選択本願念仏集」(4)

(2)善導和尚(かしょう)、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰するの文 善導の「観経疏」により、経典の読誦にせよ、仏や浄土の観想、礼拝、讃歎供養であっても、往生浄土を目的とする場合は正行であり、それ以外は雑行である。雑行を「抛(なげす)…

「選択本願念仏集」(3)

「選択本願念仏集」 内容に入る。 (1)道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文 道綽の「安楽集」により、仏教を聖道門(悟りの道)と浄土門(救いの道)に分ち、浄土の宗名を立つる理由を述べる。 深遠難解な哲理…

「選択本願念仏集」(2)

「選択本願念仏集」は九条兼実の懇請により、法然が浄土の経論から要文を集め、安楽坊遵西、真観坊感西のちに西山上人と呼ばれることになる證空に書かせた。その草稿本は京都廬山寺現存(重文)、そのタイトル「選択本願念仏集」と「南無阿弥陀佛 往生之業念…

「選択本願念仏集」(1)

法然著 大橋俊雄(しゅんのう)校注「選択本願念仏集」を読む。 法然は、いうまでもなく、法然坊源空(1133〜1212)である。源空の名は、持法坊源光と慈眼坊叡空に師事したことから、二人の名から一字づつ貰ったのであろう。 法然は比叡山在山30年…

「選択本願念仏集」(0)

選択本願念仏集 (岩波文庫)作者: 法然,大橋俊雄出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1997/04/16メディア: 文庫購入: 3人 クリック: 26回この商品を含むブログ (10件) を見る 「南無阿弥陀仏」の次は、これだ。法然その人が書いた「選択本願念仏集」。 柳宗悦の…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(21) その3

法然『一紙小消息』 末代の衆生を、往生極楽の機にあててみるに、行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑ふべからず。罪根ふかきをもきらはじとの給へり。時くだれりとても疑ふべからず。法滅以後の衆生猶もて往生すべし、況…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(21) その2

一遍の興願僧都に宛てた消息文 夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。諸々の智者たちの様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初の要文なり。されば念仏…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(21)

18.仮名法語 法然に「選択本願念仏集」あり、親鸞に「教行信証」あり。 「一枚起請文」は「選択集」の万語が一枚に結晶され、浄土門の要旨がここに凡て含まれている。この一枚を得るために、「選択集」がその用意をなした。 「勅修御伝」(「上人行状図絵…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(20)その2

一遍「法語集」 念仏の機に三品あり、上根は妻子を帯し家に在りながら、著せずして往生す。中根は妻子を棄つるといへども、住処と衣食とを帯して、著せずして往生す。我らは下根の者なれば、一切を捨てずば定めて臨終に諸事に著して往生し損ずべきなりと思ふ…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(20)

17.僧と非僧と捨聖 法然はどこまでも僧として一生を守った。 親鸞は自らの名を「愚禿(ぐとく)」と呼び、「非僧非俗」を名のった。 一遍は住むべき一切の場所を捨てて三界無庵の身として死すまでその長い遍路の旅を続け、「捨聖」と呼ばれた。

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(19)その3

自己の信ずる宗派を、絶対のものと考えることには必然さがあろう。それだけの真剣さこそあってよい。しかしそれは同時に他の人にとって他の宗派が、また絶対だいうことをも意味するであろう。それ故自己の道を固く守ることにおいては正しいが、それが他の道…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(19)その2

一遍上人と法燈国師との応対 「念起即覚」 法燈「一切の善悪、都(すべ)て思慮する莫れ、念起りて即ち覚す、これを覚すれば即ち失す」 一遍「称ふれば 仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」 国師は直ちに禅の印可を上人に呈せられた。 禅家法燈…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(19)

16.自力と他力 自力他力と分けるのは、吾々がまだ道の途中にある時に過ぎない。もしも嫉みや謗りが心に起るなら、自らがまだ道を徹していない証拠だと省みてよくはないか。道の途中に在る者が、その優劣を論じたとて、どれだけの意味があろう。人々はその…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(18)その2

就行立信 行は一念十念 信は至心に信楽(しんぎょう)して 行と信に関して証空・親鸞は師とは考えを異にした。 多念義=念仏の行を重んずる 一念義=一念といえども深い信を伴えば往生 しかし、信ずる誰かがある限り、人がまだ残る。信ずる力を持つ者だけが…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(18)

15.行と信 「選択本願念仏集」 自分の如き下根(げこん)の者には聖道門の道を進む器量がない。⇒浄土門を選択(せんちゃく) 大部分の人間は自力の難行には堪えぬ。易行の一道がなくば衆生の済度は望みがない。⇒他力門 法蔵菩薩の第十八願が遂に成就され…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(17)

14.往生 「選択集」 往生といふは、此を捨て、彼に往き、蓮華に化生するなり。 浄土に往き、蓮台の上に生れる。 自力門 成仏 此土成仏 生きながらにしての成仏 他力門 往生 彼土往生 厭離穢土欣求浄土 南無と阿弥陀仏との二つが「即」に消え去るのが、名…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(16) その3

「来迎」に対して「不来迎」という。既に二元的。ここには更に徹した思想がなければならない。またしても一遍上人。彼は平生に臨終を即さしめ、臨終に平生を即さしめた。「念々の臨終」「念々の来迎」 念仏のあるところ「常来迎」 かくして、法然上人はその…