2007-01-01から1年間の記事一覧

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(16) その2

だが浄土真宗では来迎の図を棄てた。 真宗では本尊には、彫像よりも画像を、画像よりも名号をという。 不来迎の教え。 1.来迎は諸行往生のためだという。諸行往生とは念仏によらず、あるいは布施、あるいは持戒などにより、「諸々の功徳を修して」往生を希…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(16)

13.来迎不来迎 慧心筆と伝えられる二十五菩薩来迎図 神秘的な山越の弥陀 観音、勢至の二脇士を伴った弥陀の三尊来迎図 浄土の法門と来迎の思想とは離すことが出来ぬ。 大経第十九願「たとひ我れ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発こし、諸々の功徳を…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(15)その5

親鸞 仏の廻向なくして人間の廻向はない。往生は凡てが仏の力に依るのである。私の称名など、どれだけの力があろう。称名とはいうが、実は聞名のことに過ぎまい。それ以外の称名はあるまい。わが口が称えるのではなく、仏の口が称えるのを聞くに過ぎまい。称…

「鏡と涙と伊右衛門と」

俳優座劇場にて「鏡と涙と伊右衛門と−新四谷怪談」を観劇。 つまらない芝居だったが、なぜこの芝居を観る気になったかと言うと、それはお友達の女優、風間舞子さんが出演していたからだ。 話は、現代と鶴屋南北時代とをごちゃ混ぜにして、四谷怪談の怖さと人…

「HERO」

鈴木雅之監督「HERO」 これは映画か? TVシリーズの映画化には、二つの不安がつきまとう。もちろん、TVの延長線上にあることは間違いない。しかし、映画化する以上、映画のスケール感を出さなければならない。そして、TVを見ていない人にも分かる…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(15)その4

法然 念仏せよ、酬いなき念仏はない。念々に応じるのが大悲の心である。浄土に生れたいと至心に念ずれば、必ず生れることが出来る、それを契っているのが「生れずば正覚を取らじ」との言葉である。既に仏が正覚を生じたということは、一切の者が浄土へ迎えら…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(15)その3

法然 人に対する仏があり、仏に対する人があった。 人と仏との交りが念仏であった。 親鸞 仏から人への行が一切であった。 一遍 人もまた仏の中に跡を止めず、一切は仏から仏への行となってきた。だから念仏とは仏が仏に廻向する姿なのである。

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(15)その2

「選択集」に「不廻向廻向対」の言葉が用いられ、称名せん者は「別に廻向を用ゐずとも自然に往生の業を成す」と記されてある。念仏三昧なる時、もはや私の廻向はない。如来の廻向の中にのみ在るのであるから、吾々自らの廻向はない。これを「不廻向」とはい…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(15)

12.廻向不廻向 「選択集」第2章に善導大師の「定善義」を引いていう。 衆生、行を起して、口常に仏を称すれば、仏即ちこれを聞き給ふ。身常に仏を礼敬すれば、仏即ちこれを見給ふ。心常に仏を念ずれば、仏即ちこれを知り給ふ、衆生仏を憶念すれば、仏ま…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(14)

11.一念多念 常念仏 不断念仏 多念仏 専修念仏 (実は一念も多念も同じではないか?)

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(13)

10.西方 西方浄土は、この穢土を離れること十万億土の彼方。 五智如来に、大日が中央、阿閦が東方、阿弥陀が西方、宝生が南方、釈迦が北方と位を定める。 西は太陽の沈む方位である。否、沈むその方角を西と名づけてある。人間が死んでゆく方位が西と考え…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(12) その3

法然上人はいう、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給うと。 親鸞聖人は説く、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと。 だが一遍上人はいう、仏も人もなく、念仏自らの念仏であると。 帰命 己を棄て去ること 南無 南無と弥陀との二つは…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(12) その2

帰命 1 浄土宗 身命を阿弥陀に捧げる意 2 真宗 阿弥陀の勅命に順う意 3 時宗 阿弥陀の命根に還る意 1 命を帰する 阿弥陀へ帰入 2 帰せよの命(めい) 阿弥陀が帰せよと私たちに命ずる 3 吾らと阿弥陀と未だ分かれざる根源へ 不二の境 法然→人から仏へ …

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(12)

9.六字 南無阿弥陀仏 … 本願による名号 九字 南無不可思議光如来 十字 帰命尽十方無碍光如来 南無=帰命 阿弥陀=無量寿 仏=覚 南無阿弥陀仏 = 帰命無量寿覚

長江

南京で長江を見た。大きな船が行き交っていたが、海のようではなく、やはり河であった。かなり内陸に入っているので、写真のように対岸が見えている。茶色い水が流れる大きな河であった。

南京紀念館訪問(2)

紀念館東路の標識がここに紀念館があることを示している。このことを忘れてはならない。ましてや、嘘をついてはいけない。

南京紀念館訪問(1)

南京に行ったので「侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館」を訪問した。南京市の西のはずれ長江の近く、水西門大街と紀念館東路の角にこの記念館はあるのだが、工事中で、入ることができなかった。ここで起きたことを考えると涙が出る。塀の外から心からの哀悼の…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(11)その3

極楽と地獄 理知的な人々は、そんなものの存在を少しも信じはしない。しかし地獄極楽の存在は、罪に泣く者にのみ切に知られているのである。それがあるかないかは、偏えに罪の意識にかかる。なぜなら罪に在ることが地獄に在ることである。罪のその場所が地獄…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(11)その2

凡夫が成仏する。 一物の資格もないのが凡夫である。 どうしても地獄に落ちると思うより致方がない。ところがどうあっても落ちると気附いたその刹那が、不思議にも蓮の台(うてな)に在ることを見るその刹那なのである。 実に吾々は凡夫になりきれないから救…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(11)

8.凡夫 凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。自分こそ罪人の罪人だと気附かせて貰うと、世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小に小なのであるから、自分に非…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(10) その2

阿弥陀仏は「わが名を称えよ」と、世にも簡易な称名の道を用意した。 阿弥陀仏は称名に人間の自力を期待しない。自我を立てぬのが称名である。 易行とは他力に支えられる故の易行である。 念仏は往生を得るための方便と考えてはならぬ。我が念仏の力で往生が…

「サウスバウンド」

イイノホールでの完成披露試写会で森田芳光監督作品「サウスバウンド」を観た。 素材もいいし、役者もいい。カラッとしているところもいい。でも何か物足りない。現実から一歩踏み出したストーリーなのだから、夢を見させてくれる何かが欲しい。ラストはネタ…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(10)

7.他力 教相判釈 ある宗派が興る時、他の宗派と異なる所以を明らかにする 念仏宗においては 難行と易行 自力と他力 聖道と浄土 このように整理すると分かり易い。 竜樹 天親 道綽 東の道 勤行道 自力道 聖道門 (天台、真言、華厳、禅 その他) 西の道 易…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(9) その2

慧心僧都源信「往生要集」 念仏には二つの段階が考えられた。一つは心に仏を観ずること、即ち思念である。一つは口に仏を称えること、即ち称名である。彼は観仏が称名に優るものであることを疑わなかった。しかるに称名の上位をきっぱりと述べたのが法然上人…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(9)

6.念仏 仏(釈尊)を念ずることに深い行を見た。 念仏がやがて教えそのものになる時は来た。 念仏の流れが起るや、釈迦牟尼仏の慈悲の法体が、姿となって新に阿弥陀仏と名づけられた。この名字は永劫の御光を意味する。

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(8)その4

念仏往生の願文は「凡夫往生の願」 衆生済度の別願は、一にかかって凡夫往生の上にある。念仏宗は民衆の庶民の宗教である。下輩の者、下根の者こそ、まさに仏の正客である。 称名こそは凡夫と弥陀とを繋ぐ結びの緒である。 「仏願に乗ぜよ」というのは、この…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(8)その3

第十八願は、法蔵菩薩の成仏と吾々の成仏とが同時だということ、を示す。われわれの往生すその時はまた彼が如来となるその時なのを意味する。いつこんな不思議が起るか。十声でも、否、一声でも仏の名を称える時に起るのである。

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(8)その2

因文(双観経上巻) 「設(たとえ)、我れ仏を得たらんに、十方の衆生(しゅじょう)、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生(む)まれんと欲して、乃至十念せんに、もし生(む)まれずんば、正覚(しょうがく)を取らじ」 果文(双観経下巻) 「諸有の…

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(8)

5.第十八願 願中の願、下品(げぼん)の人間を救う。 他の47願はこの一願に帰入される助願。 念仏往生の願 念仏=仏を念(おも)うこと 声で仏の名を称えること 念仏=口称、称名

柳宗悦「南無阿弥陀仏」(7)その2

阿弥陀 Amitabha … 二つの意味を持つ 1.無量寿 量(はかる)る無き寿(よわい) 時間的 永劫なるもの 2.無量光 空間的 無始無終 不生不滅 尽十方無碍光 十方に行き亙り、遮るものなき光 一切を照らす光、碍(さわ)りなき光 この二つを合わせて…