柳宗悦「南無阿弥陀仏」(18)その2

 就行立信
  行は一念十念 信は至心に信楽(しんぎょう)して


 行と信に関して証空・親鸞は師とは考えを異にした。
  多念義=念仏の行を重んずる
  一念義=一念といえども深い信を伴えば往生
 しかし、信ずる誰かがある限り、人がまだ残る。信ずる力を持つ者だけが往生する。信不信を浄土門は問わないのではなかったか。
 一遍は言う。吾々が往生出来るのでもなく、また吾々が他人を往生せしめ得るのでもない。衆生の往生は既に十劫の昔、阿弥陀仏が正覚を取られたその刹那に決定されているのである。信と不振との差別に往生が左右されるものではない。南無阿弥陀仏が往生するのである。


 法然 口に名号を称える。汝の往生は契われている。
 親鸞 本願を信ぜよ。その時往生は決定される。
 一遍 南無阿弥陀仏に往生が成就されている。人の如何に左右されるのではない。