柳宗悦「南無阿弥陀仏」(21) その2

 一遍の興願僧都に宛てた消息文
 夫れ、念仏の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿弥陀仏と申す外さらに用心もなく、この外にまた示すべき安心もなし。諸々の智者たちの様々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初の要文なり。されば念仏の行者は、かようの事をも打ち捨てて念仏すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の『選集抄』に載せられたり。これ誠に金言なり。念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪(ぜんなく)の境界をも捨て、貴賎高下の道理をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願には、かなひ候へ。かやうに打ち上げ打ち上げ、唱ふれば、仏もなく我もなく、ましてこの内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得(こころえ)にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏し給ふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。この外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちむかへりて念仏し給ふべし。南無阿弥陀仏 一遍。