柳宗悦「南無阿弥陀仏」(21) その3

 法然『一紙小消息』
 末代の衆生を、往生極楽の機にあててみるに、行すくなしとても疑ふべからず。一念十念に足りぬべし。罪人なりとても疑ふべからず。罪根ふかきをもきらはじとの給へり。時くだれりとても疑ふべからず。法滅以後の衆生猶もて往生すべし、況(いわん)や近来をや。我身わろしとても疑ふべからず。自身はこれ煩悩具足せる凡夫也との給へり。十方に浄土おほけれど西方を願ふは、十悪五逆の衆生の生るる故也。諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念にいたるまで、みづから来迎し給ふ故也。諸行のなかに念仏を用ゐるは、彼の仏の本願なる故也。いま弥陀の本願に乗じて往生しなむに、願として成ぜずといふ事あるべからず。本願に乗ずることは信心のふかきによるべし。受けがたき人身(にんしん)をうけて、あひがたき本願にあひて、おこしがたき道心を発(おこ)して、離れがたき輪廻の里をはなれて、生れがたき浄土に往生せむ事、悦びの中のよろこびなり。罪は十悪五逆の者も、生ずと信じて、小罪をも犯さじと思ふべし。罪人猶生る。いはんや善人をや。行は一念十念なほむなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なほ生る。いはんや多念をや。阿弥陀仏は「不取正覚」の言を成就して、現に彼国にましませば、定(さだん)で命終(みょうじゅう)の時は来迎し給はん。釈尊は善き哉、我が教へにしたがひて、生死を離ると知見し給ひ、六方の諸仏は悦ばしき哉、我が証誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給はらん。天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし。このたび弥陀の本願にあふ事を。行住坐臥にて報ずべし、かの仏の恩徳を。頼みても頼むべきは、「乃至十念」の詞、信じても猶信ずべきは、「必得往生」の文也。


 柳宗悦南無阿弥陀仏」(岩波文庫