柳宗悦「南無阿弥陀仏」(16) その3

 「来迎」に対して「不来迎」という。既に二元的。ここには更に徹した思想がなければならない。またしても一遍上人。彼は平生に臨終を即さしめ、臨終に平生を即さしめた。「念々の臨終」「念々の来迎」 念仏のあるところ「常来迎」 かくして、法然上人はその往生を臨終の刹那に見、親鸞聖人は平生の一念に見、一遍上人は六字に結ばれる平生即臨終にそれを見つめた。平生に臨終が即し、来迎不来迎の別は消える。一遍はいつも「不二」の境地を見つめた。不二は如である、即である。南無阿弥陀仏の当体にその光を見た。凡てはこの六字の中に摂取せられた。往生は時間の中にはない。「只今の念仏」を離れてはいない。六字が往生の当体である。六字を去って成仏はない。