柳宗悦「南無阿弥陀仏」(11)

 8.凡夫


 凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。自分こそ罪人の罪人だと気附かせて貰うと、世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小に小なのであるから、自分に非るものは無限大に大となる。自己の無限小とは、もはや自己を残さぬことである。残る何ものもなくなる時こそ、自己の完き捨棄である。この放棄のその刹那は、無限大なるものに当面するその瞬間である。ここで小が大に接し、穢れが浄に即する。否定が肯定に直結するのである。この転換の刹那を、我よりすれば往生という。なぜなら無限小の無限大への投入だからである。仏よりすれば正覚という。なぜなら無限大の無限小への顕現だからである。我が往生と仏の正覚とは同時同体になる。


 この部分、『共産党宣言』のラスト、「プロレタリアは、革命において鉄鎖のほか失うべき何ものをももたない。かれらは世界を獲得しなければならない。」に通ずる。これが真理なのだ、ということが分かる。眼の前が開けていくと同時に無になる気がする。