「浄土三部経」(61)

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 いかなる生ける者どもでも、十たび心をおこしてかの如来を思念し、かの仏国土に対して渇望の心をおこし、そうして深遠な法が説かれるときに、満足を得て、たとえ一たび心をおこしただけにすぎないとしてもかの如来を思念し、かの仏国土に対して渇望の心をおこす者どもがあったら、かれらもすべて夢の中にあっても無量光如来に見えるであろう。そうして、<幸あるところ>という世界に生まれて、<この上ない正しい覚り>から退かない者となるであろう。