廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(56)

 労資関係を、共同経営関係といったものではなく、一種の売買契約関係であると認めるかぎり、そこには売買される何らかの商品が存在するということも認めざるをえないはずでしょう。その商品が「労働力」なのです。
 さて、「労働力」も「使用価値」と「価値」とを”もって”おります。資本家にとっては、使用の作業的形態は多種多様でありえますが、ともあれ、価値の生産(形成・増殖)に役立つことが労働力の「使用価値」です。
 労働力の「価値」のほうはどうでしょうか。労働力という商品それ自身の商品価値と、労働力の発現たる労働の産み出す価値とは区別されねばなりません。労働力という商品の固有価値は、商品価値の一般則にもとづいて決まっております。商品の価値というものは、それの生産に要した(より正確にいえば、それを現時点で再生産するとした場合に要する)抽象的人間労働の量によって決まります。「労働力」という商品の生産・再生産というのは、卑属に言い換えれば、労働者が労働できる状態になっていることですから、結局は彼が生命(生活)を維持することにもほかなりません。というわけで、労働力の生産費とは生活費のことになります。労働力の生産、つまり、労働力として使える状態の形成には、一定の教育・技能の水準に達していることが要求されますから、したがって、労働力の生産費にはいわゆる養育費・教育費のたぐいも算入されます。そもそも、労働者が生産されるためには、生身の人間が生産されねばなりませんし、保育・養育されるのは家庭生活においてですから、要するに、労働力商品の生産費には家庭生活費の全部が算入されることになります。
 ここに、労働力商品の価値水準は、労働者階級の社会的・平均的な生活水準に応じて決まるという特異性が存在することになります。労資の力関係によって賃金水準に若干の変動が生じ、それが循環的に「労働力商品の価値」水準を決める、という構制になるわけで、ここには階級闘争という問題も絡んできます。