廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(33)

 実を言えば、この問題は、近代における歴史観歴史学の難題でもあったのです。この難題に答えようとする試みとして、「英雄史観」や「理性の狡智論」や階級闘争史観など、いろいろな史観が提唱されました。が、ここでは直截に、まずエンゲルスの解答を見ておきましょう。
「これら多くのさまざまな方向にはたらく意志、ならびに、これらの意志の外界に対する多岐多様なはたらきかけの合成力がまさしく歴史にほかならない。それゆえ、多くの諸個人が何を意欲するかということが問題になる。意志は、情熱や熟慮によって決定される。この情熱や熟慮を直接的に決定する槓杆にはさまざまなものがある。それは外界の対象であったり、観念的な動因、名誉心だとか”真理と正義に対する至情”だとか、個人的な憎悪、純粋に個人的な妄想だとかでもありうる。……しかし、一歩問い進めて、これらの動因の背後にいかなる起動因が存するのか? この問いを旧唯物論は提出したためしがなかった。……旧唯物論の不整合は、観念的な起動力を認めたという点に存するのではない。この観念的な機動力の背後を探り、これを動かしている根因にまで溯らなかった点にそれは存するのである」。