廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(20)

 社会的意識諸形態が体制的枠組み内に通常は納まってしまうのは、マルクス・エンゲルスの「意識」観からすれば、蓋然的(プロバブル)です。『ドイツ・イデオロギー』の一文と”公式”の文とを併せて再掲しましょう。
「意識」とは意識された存在以外のなにものでもありえない。そして、人間の存在とは彼らの現実的生活過程の謂いである」。
「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」。
 そこで、「人々の社会的存在」「彼らの現実的生活過程」が響いてきます。とかく、その現実生活の現実的状態が、当然の事実として追認されたり、合理化・正当化されたりする所以です。では、その現実とはどういう事態なのか? 経済的下部構造の次元でも、政治的統合秩序の次元でも、まさに現体制が(支配・被支配の構造成体として)”安定的に”維持・存続している現状的事態にほかならないでしょう。