廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(16)

 有名な”唯物史観の公式”に見られる社会構造観を引用で掲げておきましょう。
「人びとは、その生(レーベン)の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立な、諸関係に入り込む。すなわち、物質的生産諸力の一定の発展段階に照応する生産諸関係にはいる。
 この生産諸関係の総体が社会の経済構造、実在的な土台をなし、これのうえに法制的・政治的な上層建築がそびえたち、またそれ〔土台〕に一定の社会的意識形態が照応する。
 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的、精神的、生活過程一般を規制する。人びとの意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。 
 社会の物質的生産諸力は、その一定の発展段階で、現存の生産諸関係と、ないしはこれの法律的な表現にすぎないのであるが……財産〔所有〕諸関係と矛盾におちいる。これらの諸関係が生産諸力の発展〔を容れる〕形式からその桎梏へと一変する。そのとき社会革命の時代がはじまる。経済的基礎の変化にともなって、巨大な上層建築全体が、徐々にせよ急激にせよ覆る。云々」。(秀註=この文章のラストは次の言葉で締めくくられる。「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史がおわりをつげるのである。」 岩波文庫版「経済学批判」序言)