廣松渉「今こそマルクスを読み返す」(10)

 ところで、言語というものは、内なる意識を外部的に表現する単なる手段といったものではなく、まずは他者によって意味理解的に意識されることを介してはじめて自分にとっても〔対自的に=意識化されて〕存在するようになる現実的意識〔意識の現実態〕なのです。−−対他的な関係が現存(エクシスティーレン)〔現実態で存在〕するかぎり、それは対自的に〔意識されて〕存在します。
 マルクス・エンゲルスは、今日風の用語でいえば、意識を本源的に間主観的(インターサブジェクティブ)なものとするばかりでなく、対他−対自の関係行為態に即することにおいて関係主義的な存在規定相で把えております。