「経済学批判」(17)

 「第一章 商品」 つづき
 商品は、二重の視点から、使用価値として、また交換価値として、そのつど一面的に考察されてきた。けれども商品は、商品としてはまさに使用価値と交換価値との直接の統一である。同時にそれはほかの諸商品にたいする関連のうちでだけ商品なのである。商品同志の現実的関連は、それらの交換過程である。それはたがいに独立した個人がはいりこむ社会的過程であるが、しかしかれらはこの過程にただ商品所有者としてはいりこむにすぎない。かれらおたがい同志の定在は、かれらの諸商品の定在であり、こうしてかれらは、実際には交換過程の意識的な担い手としてあらわれるにすぎないのである。
 商品は、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械、等々の使用価値であるが、それと同時に、商品としては、それは使用価値ではない。もし商品がその所有者にとって使用価値であるならば、つまりそのまま所有者自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。商品所有者にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値の単なる素材的な担い手、あるいは単なる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品はただ交換価値としてのみ使用価値なのである。だから使用価値としては、それは、まずほかの人にとっての使用価値にならなければならない。それは、そのもともとの所有者にとっては使用価値ではないのだから、ほかの商品の所有者にとっての使用価値である。そうでなければ、その商品所有者の労働は無用な労働だったのであり、したがってその労働の成果も商品ではないであろう。他方では、商品は、その所有者自身のための使用価値にならなければならない。なぜならば、その商品以外に、つまり他人の諸商品の使用価値の形で、かれの生活資料は実在するのだから。使用価値となるためには、商品はそれがその満足の対象となるような特定の欲望に出あわなければならない。こうして諸商品の交換価値は、それらが全面的に位置を転換し、それを交換手段とする人から使用対象とする人の手にうつることによって、使用価値となるのである。