「経済学批判」(16)

 「第一章 商品」のつづき
 もし1オンスの金と、1トンの鉄と、1クォーターの小麦と、そして20エレの絹とが、ひとしい大きさの交換価値、つまり等価物であるとすれば、1オンスの金と、2分の1トンの鉄と、3ブッシェルの小麦と、そして5エレの絹とはまったくちがった大きさの交換価値である。ちがった大きさの交換価値として、それらは、あるものの多量あるいは少量を、つまり交換価値の実体を形成するかの単純な、一様の、抽象的一般的労働の、あるいは大きいあるいは小さい量を表示している。そこでこれらの量をどうしてはかるかが問題となる。というよりむしろ、こういう労働の量的定在はなんであるかが問題になる。なぜならば、交換価値としての諸商品の大きさの差異は、それらのうちに対象化された労働の大きさの差異にすぎないからである。運動の量的な定在が時間であるように、労働の量的な定在は労働時間である。商品の使用価値のうちに対象化された労働時間は、その使用価値を交換価値たらしめ、したがって商品たらしめる実体であるとともに、その一定の価値の大きさをはかる。同じ労働時間が対象化されているいろいろな使用価値のそれぞれの量は等価物である。いいかえれば、すべての使用価値は、それについやされ対象化されている労働時間がひとしくなるような割合において、等価物である。交換価値としては、あらゆる商品は一定量の凝固した労働時間にほかならない。
 商品は使用価値としては原因的に作用する。たとえば小麦なら食料として作用する。機械なら一定の関係で労働にとってかわる。商品のこの作用、それによって商品ははじめて使用価値であり消費対象であるのだが、この作用は、これを商品のサーヴィス、商品が使用価値としておこなうサーヴィスとよんでよかろう。ところが交換価値としては、商品はつねに結果の見地からだけ考察される。ここで問題になるのは、商品がするサーヴィスではなくて、商品が生産されるさいに商品自身にむかってなされたサーヴィスである。だから、たとえばある機械の交換価値は、その機械によってとってかわられる労働時間の量によってきまるのではなくて、その機械自身についやされ、したがって同じ種類の新しい機械を生産するのに必要とされる労働時間の量によってきまるのである。
 いろいろの使用価値は、そのそれぞれにちがった分量のうちに、同じ労働時間あるいは同じ交換価値をふくんでいる。一定量の労働時間をふくんでいるある商品の使用価値の分量が、ほかの使用価値にくらべて小さければ小さいほど、その商品の交換価値の比重は大きい。
 一商品の交換価値は、その商品自身の使用価値にはあらわれてこない。だが一般的社会的労働時間の対象化として、一商品の使用価値は他の諸商品の使用価値との関係のうちにおかれている。こうしてこの商品の交換価値は、他の商品の使用価値のうちにみずからを表現する。等価物というのは、実は、ほかの商品の使用価値で表現された一商品の交換価値のことである。