「経済学批判」(15)

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 第一章 商品

 一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。
 使用価値は、使用に関してのみ価値をもち、ただ消費の過程においてのみ実現される。同じ使用価値はいろいろに利用されうる。にもかかわらず、その使用価値のおよそ可能な利用のすべては、一定の諸属性をそなえた物としてのその使用価値の定在のうちに総括されている。さらに使用価値は、質的に規定されているばかりでなく、量的にも規定されている。その自然的特性にしたがって、さまざまの使用価値は、たとえば、小麦幾シェッフェル、紙幾帖、リンネル幾エレ、などのようにさまざまな尺度をもっている。
 交換価値は、さしあたり、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。このような比率においては、これらの使用価値は同一の交換量をなしている。だからプロペルティウス詩集1巻とかぎたばこ8オンスとは、たばこと悲歌というまったくちがった使用価値であるにもかかわらず、同じ交換価値でありうるのである。交換価値としてならば、ひとつの使用価値はただそれが正しい割合で存在しておりさえすれば、他の使用価値とまったく同じねうちがある。
 使用価値はそのまま生活資料である。だが逆に、これら生活資料自体は、社会的生活の生産物であり、人間の生活力の支出の結果であり、対象化された労働である。まさに社会的労働の体化物として、あらゆる商品は同じひとつのものの結晶なのである。この同じひとつのもの、つまり交換価値で表示される労働の一定の性格が、いまや考察されなければならない。
 交換価値を生みだす労働は、使用価値の特定の素材にたいして無関係であるのと同様に、労働そのものの特定の形態にたいしても無関係である。さらにまた、さまざまな使用価値は、さまざまな個人の活動の生産物であり、したがって個人的にはちがった労働の結果である。だが交換価値としては、それらは、ひとしい、無差別の労働を、つまり労働する者の個性の消えさっている労働を表示している。だから交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的労働なのである。