「経済学批判」(10)

 「序説」 
 三 経済学の方法
 もしわたくしが人口からはじめるとすれば、それは全体の混沌とした表象なのであり、いっそうたちいって規定することによって、わたくしは分析的にだんだんとより単純な概念にたっするであろう、つまりわたくしは、表象された具体的なものからますます希薄な一般的なものにすすんでいき、ついには、もっとも単純な諸規定に到達してしまうであろう。そこから、こんどは、ふたたび後方への旅がはじめられるはずで、ついにわたくしは、ふたたび人口に到達するであろう、しかしそれは、こんどは、全体の混沌とした表象としての人口ではなくて、多くの規定と関連とをもつ豊富な総体としての人口である。具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。だから思考においては、具体的なものは、総括の過程として、結果としてあらわれ、出発点としてはあらわれない、たとえそれが、実際の出発点であり、したがってまた直観と表象の出発点であるにしても。
 ブルジョア社会は、もっとも発展した、しかしもっとも多様な、生産の歴史的組織である。だからこの社会の諸関係を表象する諸カテゴリーは、この社会の仕組の理解は、同時にまた、すでに没落してしまったいっさいの社会形態の仕組と生産諸関係とを洞察することを可能にする、そして、こうした過去の社会形態の破片と諸要素とをもってブルジョア社会はきずかれているのであり、それらのうち、部分的にはなお克服されない遺物がこの社会でも余命をたもっているし、ただの前兆にすぎなかったものが完全な意義をもつものにまで発展している等々である。