「経済学批判」(6)

 「序説」 一のつづき。
 所有
 すべての生産は、ある一定の社会形態の内部で、またそれを媒介として、個人のがわからなされる自然の占有である。けれどもこのことから、所有の一定の形態、たとえば私有に飛躍するのはこっけいなことである。歴史の示すところによれば、むしろ、(たとえばインド人、スラブ人、古代ケルト人等々におけるような)共有が、所有の本源的形態であって、この形態は、共同体所有という姿で、なおながいあいだひとつの重要な役割を演じるのである。富がそのどちらの所有の形態のもとでいっそうよく発展するかという問題については、ここではまったく言及していない。
 すべての生産段階には、共通の諸規定があり、それらは、思考によって一般的なものとして固定される。しかもいわゆるすべての生産の一般的諸条件とは、こうした抽象的な要因にほかならないのであって、それによっては現実の歴史的な生産段階のどれひとつをも理解することはできない。