「経済学・哲学草稿」(41)

 分業に関する国民経済学者の説明のまとめ その2
 セイ 交換を偶然的であって基本的でないものとみなす。社会は交換がなくても存続することができたであろう、とする。[だが]交換は進歩した社会において不可欠なものとなる。にもかかわらず、生産は交換がなければ、おこなわれえないのだ。分業は便利で有用な一手段であり、社会的な富のための人間的諸力の巧妙な使用であるが、しかし分業は、個人的にみれば各人の能力を減退させる。この最後の見解は、セイの一つの進歩である。
 スカルベク 個人的な、人間に内在する諸力、すなわち知性や労働のための肉体的素質を、社会から由来した諸力、すなわち相互に制約しあう交換および分業から区別する。しかし、交換の必然的な前提は私有財産である。
 ミル 商業を分業の結果として述べる。彼において人間的活動は一つの機械的運動へと還元される。分業と機械の使用とは生産の富を促進する。各人にはできるかぎり小範囲の作業をまかせるようにしなければならない。分業と機械の使用とは、また一方では、大量的な富の、したがって[大量的な]生産物の生産の原因となる。このことが大製造業の原因である。

 分業と交換とのこうした考察は、はなはだ興味深いものがある。なぜなら、分業と交換とは、類に適合した活動および本質力としての人間的な活動と本質力との、明らかに外化された表現だからである。
 分業と交換とが私有財産を基礎にしているということは、労働が私有財産の本質であるという主張、すなわち国民経済学者には証明することができないが、彼らに代ってわれわれが証明しようとしている主張にほかならない。分業と交換とが私有財産の形態化であるということ、まさにこのことのなかに、つぎのような二重の証明が存している。すなわち一方では、人間的な生活がその実現のために私有財産を必要としたこと、他方では、それがいまや私有財産止揚を必要としているということ、の証明が存しているのである。
 分業と交換という二つの現象は、そこにおいて国民経済学者が、みずからの学問の社会性を自負するかと思うと、たちまちまたその学問の矛盾を、つまり非社会的な特殊利害による社会の基礎づけを、同じ口の下から無意識に表明しているものである。