「経済学・哲学草稿」(39)

 J.B.セイはいう。分業とは、人間の諸力を巧妙に使用することである。したがって分業は、社会の諸生産物、社会の諸々の力と享受を増加させる。けれどもそれは、個人的にみれば各人の能力を奪い、減退させる。生産は交換がなければおこなわれえない。
 スカルベクはいう。人間に内在する諸力は、彼の知性と、労働のための肉体的な素質である。社会的な状態に起源をもっている諸力は、労働を分割する能力、種々の人間の間に種々の労働を配分する能力……また相互的なサーヴィスを交換したり、これらの手段を構成する諸生産物を交換したりする能力などである。人間が他の人間に自分のサーヴィスを提供する動機は、利己心である−−人間は他の人間に提供したサーヴィスにたいして報酬を求める。交換が人間のあいだで確立されるためには、排他的な私有財産の権利が不可欠である。交換と分業とは、相互に制約しあっている。
 ミルはいう。人間は運動をつくりだすこと以外になにごともなしえない。人間は諸事物を運動させて、それらを互いに引きはなしたり、または互いに接近させたりしようとすることができる。そのほかのことは物質の諸属性がやるのである。労働や機械を使用するさいにしばしば見いだされるのは、巧妙な配分によって、また相互にぶつかりあう諸作業の分離によって、またなんらかの仕方で相互に促進しあうことのできるすべての諸作業の結合によって、効果が増大されうることである。一般に人間は同一の速度と巧妙さをもって、多数の異った諸作業を遂行することはできないのであって、習慣は人間に少数の作業を実行するためになら、こうした能力を得させるのであるから、−−だから、各個人にまかせる作業の数を可能なかぎり制限することは、つねに有利なのである。
 このように国民経済学者たちは互いに矛盾している。しかし、分業と生産の豊富さとが、分業と資本の蓄積とが、相互に制約しあうこと、ならびに自由に放任された、それ自身にまかされた私有財産だけが、もっとも有益でもっとも包括的な分業をもたらすことができるということについては、全部、意見が一致している。