「経済学・哲学草稿」(38)

 分業は、疎外の内部での労働の社会性についての国民経済学的な表現である。いいかえれば、労働とは外化の内部での人間的活動の一表現、生命外化としての生命発現の一表現にすぎないのであるから、分業もまた、実在的な類的活動としての、あるいは類的存在である人間の活動としての、人間的活動が、疎外されて定立されたもの以外のなにものでもないのである。
 分業の本質−−労働が私有財産の本質として認識されるやいないや、分業はもちろん富の生産の主要な原動力として把握されずにはいなかったのだが−−について、すなわち、類的活動としての人間的活動の、この疎外され外化された形態については、国民経済学者たちはきわめて不明確であり、またたがいに矛盾している。
 アダム・スミスはつぎのようにいう、「分業は生産物を交換し相互に売買しようとする性向の必然的な、緩慢な、そして漸進的な結果である。われわれは、交換、取引、売買によってわれわれの相互に必要とする世話の大部分をうけとるのであり、それだから、分業を発生されたものは、この売買への素質なのである。この分業の拡大はつねに交換能力の大きさによって、他の言葉でいえば市場の広さによって制限されている。市場がきわめて狭小な場合は、だれ一人としてただ一つの業務に全面的に没頭する気にはならないであろう。というのは、彼の労働の生産物のなかで彼自身の消費をこえる剰余部分を、彼が手にいれたいと欲した他人の労働の生産物の同じ剰余部分と交換することが十分できないからである。……」進歩した状態では「あらゆる人は交換によって生活を維持し、一種の商人となるのであって、社会そのものは実際は商業を営む社会である。