「経済学・哲学草稿」(36)

 [三] 「欲求、生産、分業」

 私有財産のもとでは、どの人間も、他人に新しい犠牲を強制するために、また他人を新しい従属におとしいれて彼を享楽の新しい様式へ、だからまた経済的破滅の新しい様式へと誘いこむために、他人に新しい欲求をよびおこそうと投機する。どの人間も、他人にたいして一つの疎遠な本質力をつくりだそうと努め、そこに自分自身の利己的な欲求の満足を見いだそうとするのである。人間はますます人間として貧弱となり、敵対的な存在を我がものとするために、人間はそれだけますます多くの貨幣を必要とする。貨幣の力が増大するのつれて、人間の欠乏[必要度]は増大するのである。−−それゆえ、貨幣にたいする欲求は、国民経済によって産みだされた真の欲求であり、また国民経済が産みだす唯一の欲求である。
 
 われわれすでに、国民経済学者がさまざまな仕方で労働と資本との統一を措定している状態をみてきた。 (1)資本は集積された労働である。 (2)生産の内部での資本の規定、すなわち一部は利得をつけての資本の再生産、一部は原料(労働の素材)としての資本、一部はみずから労働する用具としての資本−−機械は直接に労働と等置された資本である。 (3)労働者は一つの資本である。 (4)労賃は資本の費用の一部である。 (5)労働者との関係においては、労働は彼の生活資本の再生産である。 (6)資本化との関係においては、労働は彼の資本の活動の一契機である。
 最後に、 (7)国民経済学者はこの両者[資本と労働と]の本源的統一を、資本家と労働者との統一として想定するが、これは天国のような原始状態である。どのようにしてこれら両契機が二つの人格として対立的に分裂するかということは、国民経済学者にとって一つの偶然的な、したがってただ外面的にのみ説明されるべき出来事である。