「空想より科学へ」(21)

 二、資本主義的革命。まず単純協業とマニュファクチャーによる工業の変革。従来分散していた生産手段の大工場への集中、これにより、個々人の生産手段が社会的生産手段に転化される−−しかし、この転化は大体において交換の形態に影響しない。旧来の取得形態はそのままである。資本家が出現する、彼は生産手段の所有者としての資格において生産物を取得しそれを商品に転化する。生産は社会的行為となったが、交換は取得とともに依然として個人的行為であり、個々人の行為である。社会的生産物が個々の資本家によって取得される。この根本矛盾から、今日の社会がその中で動いており大工業が明るみにさらけだすところの一切の矛盾が発生する。
 A、生産手段からの生産者の分離。労働者に対する終身賃金労働者の宣告。プロレタリアートブルジョアジーとの対立。
 B、商品生産を支配する法則がだんだん優勢となり、しだいにその効力を増大する。無制限の競争戦。個々の工場内の社会的組織と生産全体における社会的無政府状態との矛盾。
 C,一方では機械の改良、これは競争を通して個々の工場主すべてに対する強制命令となり、また同時に不断に増大する労働者の解雇、すなわち産業予備軍を意味する。−−他方では、生産の無制限の拡張、これも、各工場主に対してなされる競争の強制法則である。−−この両方面から生産力の発展は前代未聞の域に達する。供給は需要を超える。生産過剰、市場の氾濫、十年ごとの恐慌、悪循環。すなわち、一方において生産手段と生産物の過剰−−他方において仕事がなく生活資料のない労働者の過剰。そして生産の槓杆と社会的福祉の槓杆は共存することができない、なぜか、生産の資本主義的形態は、生産力と生産物とはあらかじめ資本に転化することなくして活動し、または流通することを禁ずるからである、ところが、まさしく生産物と生産力の過剰でそれをさまたげるからである。この矛盾が拡大したとき不合理なことがおこる。生産方法が交換形態に対し叛逆するのである。これによりブルジョアジーもこれ以上彼ら自身の社会的生産力を指導する能力がないことを認めさせられるのである。
 D、資本家自身も余儀なく、生産力の社会的性格を部分的に承認する。生産及び交通の大機関は、最初は株式会社によって、次はトラストによって、それから国家によって取得される。ブルジョアジーは無用の階級たることがおのずからあきらかになる。彼らの一切の社会的機能は今や月給取によって行なわれる。