「空想より科学へ」(18)

 一切の生産手段を社会が没収するということは、資本主義的生産方法が歴史上にあらわれて以来、個人により、また学派によって未来の理想として夢想されたことであった。だが、その実現のための実際の条件が存在しなければ、それは可能となり、また歴史的必然となりえない。他の一切の社会的進歩と同じく、階級の存在が正義や平等などと矛盾するということを理解しただけでは、その実現は駄目であり、またこれらの階級を廃止しようとする単なる意欲だけでも駄目であり、その外に一定の新しい経済的条件がなくてはならぬ。社会における搾取階級と非搾取階級との分裂、支配階級と被支配階級との分裂は、これまで生産の発展が不十分であったことの必然の結果であった。
 社会階級の廃止は一つの歴史的発展段階を前提とするので、そのときになれば、ある特殊の支配階級はもちろん、支配階級一般、したがって階級差別そのものの存在が、時代錯誤になり、古くさくなってしまうのである。したがって、また、そういう生産の高度の発展段階となれば、ある特殊の社会階級が生産手段や生産物を取得し、それとともに政治的支配、教育の独占、精神的指導をわがものとすることが、ただ無用となるだけはでなく、それが経済上、政治上、また知識上発展の障碍となるのである。いまや、われわれはこういう点に到達している。生産手段の膨張力は、資本主義的生産方法が自分自身にはめた桎梏を打ち破るのである。生産方法がこの桎梏から解放されることは、生産力がたえずますます急速に発展していくための、したがってまた生産そのものがほんとうに無制限に拡大していくための唯一の前提条件である。社会の全員に対し、物質的に十分満ち足り、その上に日に日に豊富になっていく生活を保障すること、それは、さらにまた、彼らの肉体的および精神的能力の完全にして自由な発展と活動を保証する可能性、そういう可能性が今はじめてここにある。それが正しくここにある。