「空想より科学へ」(17)

 資本主義的生産方法は人口の大多数をますますプロレタリアに転化する。彼らは、みずから没落を免れるためには、どうしてもこの方法の変革を成就せざるをえない力である。また、この生産方法はすでに社会化された厖大な生産手段をだんだん国有化させるが、そのことのうちに、この変革完成の道が示されている。すなわち、プロレタリアーットが国家権力を掌握すると、それがまず生産手段を国有にするのである。そして、こうすることは、プロレタリアートプロレタリアート止揚し、一切の階級差別と階級対立とを止揚し、そしてまた国家としての国家も止揚することである。従来の社会は、階級対立のうちに動いてきたので、国家を必要とした、国家というのは、そのときどきの搾取階級の組織、その生産条件を外部からの攻撃に対して維持するための組織であった。それは特に被搾取階級を、与えられている生産方法にふさわしい抑圧の諸条件(奴隷制農奴制、又は隷農制、賃労働制)に暴力的に抑えつけておくための組織であった。国家は社会全体の公の代表者であり、全社会を総括した一つの目にみえる団体であった。しかし、国家がそういうものであったのは、それぞれの時代に全社会を自ら代表していた階級のそれであった限りにおいてであった。しかるに国家がいつの日か社会全体の本当の代表者となるならば、そのとき、それは無用物となる。抑圧すべきいかなる社会階級も存在しなくなり、階級支配と従来の生産の無政府状態に立脚する個人の生存競争がなくなってしまえば、そしてこれから生ずる衝突と逸脱とがなくなってしまえば、抑圧しなくてはならぬものはないのである。特殊な抑圧権力たる国家は必要でない。国家が実際に社会全体の代表者として登場する最初の行為−−社会の名において生産手段を没収すること−−これこそは、同時に、国家が国家として行う最後の独立行為である。国家権力が社会関係に対して行ってきた干渉は、一領域から他領域へと無用の長物となり、ついには順々に眠りにつく。人間に対する統治に代って物の管理と生産過程の支配が現われる。国家は「廃止」(abschaffen)されるのではない、死滅する(absterben)のである。