「空想より科学へ」(16)

 社会的に作用している力の作用は自然力と少しも変わらない、われわれがそれを認識し、それを考えにいれぬ限り、それは盲目的で、暴力的で、破壊的である。だが、ひとたびわれわれがそれを認識し、その活動、その方向、その効果を把握すれば、これをだんだんとわれわれの意志に従わせ、これを手段としてわれわれの目的を達成することは、われわれ次第である。ことに今日の強力な生産力についてはそうである。今日の生産力をようやく認識されるようになった性質どおりに処理すれば、社会的生産の無政府性に代って、全体および各人の必要に応じた社会に計画的な生産の規律が生れる。こうして、生産物がまずはじめに生産者を、ついで取得者を奴隷化した資本主義的取得方法のかわりに、近代的生産手段の性質そのものに基づいて作られた生産物の取得方法ができあがる、それは、一方では、生産を維持し拡大するための手段としての直截な社会的な取得であり、他方では、生活および享楽の手段としての直接な個人的取得である。