「空想より科学へ」(15)

 恐慌は、ブルジョアジーには、近代的生産力をこれ以上管理する力がないことを暴露した。同様に、大規模な生産や交通機関が株式会社やトラストや国有に転化することは、これらの目的のために、ブルジョアジーが不用であることを示すものといってよい。
 しかしながら、株式会社になっても、トラストになっても、また国有が実行されたとしても、生産力の資本的性質はそれでは廃棄されない。株式会社やトラストについては、このことは明白であるが、近代国家もまた、労働者や個々の資本家の侵害に対し、資本主義的生産方法の一般的な外的諸条件を維持するために、ブルジョア社会がつくりだした組織であるにすぎない。近代国家は、どんな形態をとろうとも、本質的には資本主義の機関であり、資本化の国家、観念としての全資本家である。生産力の所有をますます多くその手に収めれば収めるほど、国家は、いよいよ現実の全資本家となり、ますます国民を搾取する。労働者はいつまでたっても賃金労働者であり、プロレタリアである、資本関係は廃棄されないで、いよいよ極端にまで押進められる。だが、その頂点に達するや、それは顚覆する。生産力の国有は、衝突の解決ではないが、それ自身の内には、この解決の形式的手段、すなわちそのハンドルがかくされている。
 この解決は次のことしかない。すなわち、近代的生産の社会的性質を実際に承認すること、いいかえれば、生産方法、取得方法、および交換方法を生産手段の社会的性格に調和させること。そして、そのためには、社会をおいてはほかにそれを管理するものがないまでに成長している生産力を、社会が公然かつ直接に所有することが必要である。