「空想より科学へ」(11)

 資本主義的生産においては、大作業場やマニュファクチャーにおける生産手段の集中、それの事実上の社会的生産手段への転化が出現した。この社会的な生産手段と生産物は、これまでのように、個人のものであるかのように取扱われた。従来、労働手段の所有者がその生産物を取得したのは、その生産物が普通に彼自身生産した物であるからであったのに、今やそれは彼の生産したものではなくて、全然他人の労働の生産物であるにもかかわらず、労働手段の所有者がこれまでどおりその生産物を取得することになったのである。こうなると、社会的に生産されることになった生産物を取得する人は、生産手段を現に動かし、生産物を現実に生産する人ではなくて、資本家であった。生産手段と生産は本質的に社会的なものになった。が、それらを規制する取得形態は、個人的な指摘生産を前提とする。すなわち、各人は自らの生産物を所有し、それを自分で市場に運んだのである。かくして生産方法は、このような取得形態の前提をなくしたにもかかわらず、依然としてこれまでどおりの取得形態に規制されている。この矛盾こそ、新しい生産方法に、資本主義の性質を与えるものであり、この矛盾の内に現代の一切の衝突の萌芽が含まれている。この新しい生産方法が重要な生産領域に及び、また経済的に重要な諸国を支配するようになり、したがって個人的生産が残り少なくなると、社会的生産と資本主義的取得の不調和はいよいよ明白にあらわれてきたのである。
 資本主義的生産のもとで、以前は例外であり、補助的なものであった賃労働は、今や全生産についての常態となり、基本形態となった。一方では資本家の手に集中された生産手段と他方では自分の労働力のほか何ももたぬようにまでなった生産者、この両者の分離は完成した。社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は、いまや、プロレタリアートブルジョアジーとの対立となって、明白に現われてきたのである。