「空想より科学へ」(10)

 生産力と生産方法の衝突はなぜ起こるのか。
 資本主義的生産の前、すなわち、中世では、労働者が彼の生産手段を私有するという基礎の上に立つ小経営が一般に行なわれていた。それは、自由農民もしくは隷農による小農の農業、都市の手工業であった。こんなばらばらの小さい生産手段を集中し、それを拡大して、現代のような強力な生産の槓杆とすること、それこそが資本主義的生産方法と、その担い手たるブルジョアジーの歴史的役割だった。単純協業、マニュファクチャー、大工業と、ブルジョアジーはかの小さい能力の生産手段を巨大な生産力にするため、個人個人の生産手段を社会的な、人間の集団によってのみ使用できるものに変えざるをえなかった。糸車や、手織機や鍛冶屋の槌代りに、紡績機や力織機や蒸気槌があらわれ、個人の仕事場の代りに、数百人、数千人の共同作業を要する工場があらわれた。そうして生産手段がそうなると、生産そのものも、一連の個人的行為から、一連の社会的行為にかわり、生産物も個人的生産物から社会的生産物にかわった。
 自然発生的に、無計画的に、だんだんとできあがった分業が、その社会の生産の根本形態であるところでは、その分業は生産物に商品の形態を与え、その交換すなわち売買によって、個々の生産者は種々様々な彼らの欲望をみたすことができるようになった。ここに個々の工場内に生まれたところの計画的な分業がもちこまれたのであるから、個人的生産と並んで社会的生産が現われたわけだ。この社会的生産は成立のとき、すでに商品生産と商品交換の促進力であったところの商人資本、手工業、賃労働と直接に結びついていた。すなわち、社会的生産そのものは、商品生産の新形態として出現したのだから、商品生産の取得(所有=秀註)形態は社会的生産にもそのままひきつづいて完全にあてはまった。