「空想より科学へ」(8)

 唯物史観によって、社会主義は、一人の天才の頭脳が偶然発見したものではなくなった。それは歴史的に成立した二階級、すなわちプロレタリアートブルジョアジーとの闘争の必然の産物であった。唯物史観の任務は、もはやできるだけ完全な社会制度を考案することではない、これら階級とその対立とが必然的に生まれてきた歴史的な経済的経過を研究し、これによってつくりだされた経済状態のなかに、この衝突を解決すべき手段を発見することであった。しかし、従来の社会主義とはこの唯物史観は相容れなかった。それはちょうどフランス唯物論の自然観が弁証法や新しい自然科学と相容れないのと同じだった。なるほど、従来の社会主義は、現存の資本主義的生産方法とその結果とを批判はしたけれど、彼らは、それを説明できず、したがって、それをどうすることもできなかった。ただそれを悪いと非難するだけであった。このふるい社会主義は、資本主義的生産方法と不可分に結びついている労働者階級の搾取をいかに猛烈に非難しても、搾取がどこに存在するのか、それはいかにして発生するのかを明瞭に説明することはますますできなかった。これを説明するにためには、資本主義的生産方法を一方でその歴史的関連において示し、一定の歴史的時期におけるその必然性を、したがってまた、その没落の必然性を示すことが必要だった。されにまた、他方でどこまでもかくされている正体、内部の性質をあばき出すことも必要だった。このことは剰余価値Mehrwert)の暴露によって成しとげられた。これで、不払労働の取得こそ資本主義的生産方法とそれによって行われる労働者搾取の根本形態であることがわかった。そしてまた、資本家は彼の労働者の労働力を商品として商品市場でもっている価値どおりに買う場合でも、それに対し支払ったより多くの価値をそれからひきだすこと、そしてこの剰余価値こそが、有産階級の手中に、不断に増大する資本量を積みあげるところの価値額を、結局、形成するものであることを証明した。資本主義的生産と資本の生産の、両者の来歴があきらかになったわけだ。
 この二大発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクスに負うところである。社会主義はこの発見によって一つの科学となった。そこでこの科学はこれについて、その細目と関連とをヨリ十分に研究しなくてはならぬ。