「浄土三部経」(0)その2

hanadahidejirou2008-09-17

 訳註者早島鏡正の「あとがき」からもポイントを押さえておく。


 大乗仏教のうちで、最も宗教的・実践的な教えが浄土教である。古来、中国・日本の仏教史上、浄土教の果たした役割は、禅宗のそれと比して優劣をつけ難い。念仏の生活を通じ、真に仏教徒としての生甲斐を感じて、浄土に生れた(秀註=ここで「生まれる」とは極楽往生すること)人々の数は、恐らく数えきれないほどであろう。
 浄土教は、真実の自己を永遠の浄土において求めることを説く。しかも、自己を離れて浄土はなく、また、本願他力の大悲もありえない。無限の時間と空間のただ中にあって、有限の自己の存在を凝視するとき、親鸞のいう「宿業」は、まさしく、如来の大悲の中に生きる自己の姿とうけとらざるをえない。如来と自己という、存在の範疇を異にしたものが、相即するところのものこそ念仏生活であり、「遠く宿縁を慶ぶ」信の感激であろう。
 浄土思想の根幹は、釈尊以来の仏教の本質を、現実人生において端的に具体化している点にある。従って、戒定慧の三学とか六波羅蜜などの教理徳目を表面に出して、浄土教の組織化を試みてはいない。浄土教は、われわれの過・現・未の三世を通じて、われわれと生き続けるところ(秀註=一般大衆を極楽浄土に迎えること)に、その展開の主旨があるのであって、それはまた、仏教の性格にほかならない。