「資本論初版 第1章」(71)

これまで、真珠やダイヤの中から交換価値を見出した化学者は一人もいない。それなのに批判の深さを特に要求している我著者たちは、物の使用価値はその物としての性質に依存せず、それに反して、物の交換価値が物としての物に帰属することを発見するのである。ここでは、物の使用価値は、交換なしに、従って物と人間との直接的な関係の中で人間に対して実現されるが、逆に、その価値は交換の中でしか、即ち社会的な過程の中でしか実現されないという奇妙な事情が、彼らの説の正しさを証明しているのである。ここではあのお人好しのドッグベリーが思い出されないだろうか。彼は夜番のシーコールに教えて曰く、「美貌であるか否かは事情によって決まるのであり、学のあるなしは自然から来るのだよ。」マルクス註 『考察』の著者とベイリーは、リカードが単に相対的なものである交換価値を絶対的なものに変えたといって非難しているが、実際は逆である。リカードは、交換価値としての真珠とかダイヤといった物が持っている外観上の相対性をば、その外観の背後に隠れている真の関係に還元し、交換価値の相対性を人間労働の単なる現れとしたのである。たしかにリカード派の人々は、ベイリーの批判に対して荒っぽい答えしかできず、的確には答えられなかったが、それはリカード自身の中には価値と交換価値との内的関連についての説明がなかったからにすぎない。)