「賃銀・価格および利潤」(14)

 九 労働の価値
 『労働の価値または価格』は、労働力の維持に必要な諸商品の価値によって測定された労働力に他ならない。だが労働者は、自分の労働が遂行された後にその賃銀を受取るのであり、しかも彼は、自分が現実に資本家に与えるのは自分の労働だということを知っているので、彼の労働力の価値または価格は、必然的に、彼にとっては、彼の労働そのものの価格または価値のように見える。彼の労働力の価格が、6時間分の労働の実現されたものである3シリングならば、そして彼が12時間はたらくならば、この12時間分の労働は6シリングの価値において自らを実現するとはいえ、彼は必然的に、この3シリングを12時間分の労働の価値または価格だと考える。このことから二重の結果が生ずる。
 第一。労働力の価値または価格は、労働そのものの価格または価値たる外観をおびる。
 第二。労働者の1日の労働の一部分だけが支払われて他の部分は不払であるのに、また、その不払=または剰余労働こそまさに剰余価値または利潤の構成部分であるのに、あたかも総労働が支払労働であるかに見える。
 この間違った外観は、賃労働を、他の歴史的な労働形態から区別づける。賃金制度の基礎の上では、不払労働でさえ支払労働のように見える。つい昨日までヨーロッパの東部に存在していたとも云える隷農が、1週間のうち3日間を自分の耕地で自分自身のために働き3日間を主人の領地で只で働くのも(労働のうち支払われた部分と不払の部分とが一目瞭然と分かたれている)、工場または仕事場で1日に6時間を自分自身のため6時間を雇主のために働くのも、実は同じことなのであるが、ただ後の場合には、労働のうち支払われた部分と不払の部分とが相互に不可分に混合されており、そして全取引の本性が契約の介在により、また週末に受取られる支払いによって全く隠蔽されているのである。無償労働が、一方の場合には自発的に与えられるように見え、他方の場合には強制的なように見える。異なるのはただそれだけである。
 私(マルクス)が『労働の価値』という言葉を用いるのは、『労働力の価値』をあらわす通俗語としてに他ならない。