「経済学・哲学草稿」(48)

 「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」の後半。
 ヘーゲルはいう。意識が存在しているあり方、そして或るものが意識に対して存在しているあり方は、知識である。知識は意識の唯一の行為である。だから、或るものは、意識がこの或るものを知るかぎりにおいて、意識に対して生成するのだ。知ることが意識の唯一の対象的なふるまいなのである。−−いまや意識は、対象の虚無性を、つまり対象が意識から区別されていないことを、意識に対する対象の非存在を知っているが−−なにによってそれを知っているかというと、意識が対象を自らの自己外化として知ることによってである。すなわち、意識が自己を−−対象としての知識を−−知ることによってである。なぜなら、対象とは対象の仮象に、ごまかしの幻影にすぎないが、しかし対象はその本質に従えば、自己に自己自身を対置させ、したがって虚無性つまり知識のほかにはなんらの対象性をもたない或るものを、自己に対置させている知識自身にほかならない、ということになるからである。いいかえれば、知識は、それが一つの対象に関係することによって、自己の外部にあるにすぎず、自己を外化しているにすぎないのだということ、また知識自身がただ対象として自己に現象しているのだということ、あるいは対象として知識に現象しているものが知識自身にすぎないのだということを、知識は知るのである。
 他方、ここには同時に別の契機、すなわち意識がこうした外化と対象性とを同じように止揚し、自己のうちに取りもどしてしまっているという契機、したがって意識がそれの他在そのもののうちにあって自己のもとにあるという契機が存する。
 こうしたヘーゲルの説明のうちに、思弁のあらゆる幻想が集約されているのを、われわれは見いだす。
 第一に、意識、自己意識は、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにある。 第二に、自己意識をもつ人間は、精神的世界を−−あるいは彼の世界の精神的な一般的現存を−−自己外化として認識し止揚していたのであるが、そのかぎりにおいてなお彼は、この世界をこの外化された形姿でふたたび確認し、自分の真の現存だとし、この世界を再建し、それの他在そのもののうちにあって自己のもとにあると称するということであり、したがってたとえば宗教を止揚した後に、宗教を自己外化の一産物として認識した後で、しかもなお宗教としての宗教のうちに自己が確証されているのを見いだすということである。ここにヘーゲルのいつわりの実証主義の、あるいは彼の見せかけだけの批判主義の根源があるのだ。

 第四草稿は、ヘーゲル精神現象学』最終章についてのノートと題され、その抜書きであるので、省略。


 マルクス著、城塚登・田中吉六訳「経済学・哲学草稿」(岩波文庫