「資本論初版 第1章」(61)

 〔第3項 商品交換される労働生産物〕
 それでは、労働生産物が商品という形式を取るや否や謎に満ちた性格を持つのはどうしてなのだろうか。
 生産物が人間労働という点で種を同じくする労働の単なる物的なおおいにすぎない限りで、人々はその生産物を価値として互いに関係させ合うのだが、その時には、逆に、人々のいろいろな労働が人間労働でしかないことが、物的なおおいの下に隠されている。人々はその生産物を価値として互いに関係させることで、自分たちのいろいろな労働を人間労働として互いに関係させる。人間の関係が物的形式を介することで隠れてしまっているのである。従って、価値の額(ひたい)には自己の何たるかは書かれていないのである。人々はその生産物を商品として関係させるためには、自分たちのいろいろな労働を抽象的に人間的な労働に等置しなければならない。人々はそれを知ってはいないが、物質的事物を価値という抽象物に還元することで、事実上それを実行している。それは人間の脳の自然発生的な働きであり、従って無意識の本能によってなされる働きである。この働きは人々の物質的生産の特殊な様式から必然的に生れるものであり、生産活動の故に結び合う関係から必然的に出てくるものである。最初は〔第1段階〕人々の関係が事実として存在する。しかし、次には〔第2段階〕人間は人間であるが故に、自分たちの関係を関係として意識することになる。どのように意識するのか。あるいは脳の中にどのように反映されるのか。それはその生産関係自身によって決まる。後になって〔第3段階〕人々は科学によって自分たち自身の社会的生産物の秘密を明かそうとする。〔価値が人々の社会的生産物だ〕というのは、物が価値という規定を持つのは彼らが作った事柄であり、それはちょうど言語が人間の作ったものであるのと同じだからである。
つづく