「資本論初版 第1章」(56)
〔第4項 本節のまとめ〕
ご覧のとおり、商品の分析の結果、価値という形式が持っている全ての本質的な規定とその対立的な契機〔第Ⅰ形式〕が明らかにされ、価値の相対的な表現の一般的形式と一般的等価物の形式〔第Ⅲ形式〕が証明され、価値の単純な相対的表現の果てなき系列を導き出した。後者は、はじめは〔第Ⅱ形式としては〕価値形式の展開における一つの通過点だったが、最後には〔第Ⅳ形式としては〕一般的等価物の〔第Ⅲ形式とは違った〕独特の相対的価値形式となった。しかし、商品の分析から明らかになることは、これらの形式は商品の形式一般だということであった。従って、それらの形式はどの商品でも取りうるのである。ただ、それが対立的なので、A商品がある形式規定を取る時には、B商品、C商品等々はそれに対立する形式規定を取るというだけのことである。しかし、決定的に重要なことは、価値の形式と価値の実体と価値の大きさとの間の必然的な内在的な関連を見出すことであった。即ち、観念〔論〕的に〔ヘーゲル的に〕言うならば、価値の形式が価値の概念から出てくることを証明することであった(マルクス註 商品の分析をしたのに、あるいは一層特殊的には、商品の価値の分析をしたのに、まさに価値を交換価値にするところの価値の形式をそこから取り出さなかったことは、古典派経済学の根本欠点の一つである。古典派経済学の最良の代表者であるアダム・スミスやリカードでさえ、価値の形式は全くどうでもいいもの、あるいは商品の本性自身にとっては外的なものとして扱っている。なぜそうなったかというと、それは、彼らが価値の大きさの分析に全注意を注いだからというだけではない。その根拠はもっと深い。〔即ち〕労働生産物の取る価値という形は、ブルジョア的生産様式の最も抽象的ではあるが同時に最も普遍的な形式であり、従ってそれは生産の社会的様式の一つの特殊な種類であり、従ってまた歴史的な性格を持っている。従って、資本主義的生産様式を生産の永遠の自然な社会的様式と誤認している人は、必然的にまた、価値という形式、従ってまた商品という形式を、更にまた貨幣という形式、資本という形式等々の特殊性を見落とすことになるのである。従って、周知のように、価値の大きさを労働時間という尺度で測ることでは完全に一致している経済学者たちが、一般的等価物の固定した形である貨幣形式については、極めて様々な矛盾した観念を持つことになる。これは例えば、銀行制度を扱う段になると、驚くほどひどくなる。そこでは、貨幣についての決まり文句的な定義ではもはややってはいけない。従って、その反対に、価値の中にその社会的形式しか見ず、あるいはむしろ実体なき仮象しか見ない反動的な重商主義(ガニール、など)といったようなものが現れてくるのである。−−ここで一度だけ言っておくと、私が古典経済学というのは、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を〔科学的に〕追求しているペティ以来の全ての経済学のことであり、それは俗流経済学に対置されているのである。後者は、外観上の関連の中をうろついていて、いわゆる巨視的現象を明快に分からせ、ブルジョアたちの日常の用に供するために、以前から科学的経済学によって提供されている材料をいつも新たに反芻するだけで、その他の点では、ブルジョア的生産の中での主役たちが自分たちの永遠の最良の世界について持っているつまらない自己満足的な観念を体系化し、衒学的にし、それを永遠の真理と宣言することしかしない経済学である。)。