「経済学批判」(47)

 c 鋳貨。価値表章 つづき
 イギリスやフランスやの、政府による貨幣悪鋳の歴史をみると、価格が銀貨の悪化されたのと同じ比率では騰貴しなかったことが、しばしば見いだされる。これはもっぱら、鋳貨の増加された比率が、それが悪化された比率におよばなかったことによるものである、つまり商品の交換価値は、そのごは価値の尺度としてのこのより低い金属混合で評価され、この低い度量単位に相応する鋳貨によって実現されるはずであったのに、その金属混合がそれに相応する数量だけ発行されなかったからである。このことは、ロックとラウンズとの論争で解決されなかった困難を解決するものである。紙券にせよ悪鋳された金や銀にせよ、価値表章が、鋳貨価格にしたがって検査された金や銀の重さを代理する比率は、それ自身材料によってきまるのではなくて、流通にあるその量によってきまるのである。だからこの関係を理解することが困難なのは、貨幣が価値の尺度および流通手段というふたつの機能をはたすにあたって、単にあべこべであるばかりでなく、このふたつの機能の対立と一見矛盾するような法則にしたがっていることによるものである。貨幣がただ計算貨幣としてだけ役だち、金がただ観念的な金としてだけ役だつにすぎない価値の尺度としての貨幣の機能にとっては、すべてがその自然的材料にかかっている。交換価値は、銀で評価されたばあいには、つまり銀価格としては、金で評価されたばあい、つまり金価格としてのそれと、まったくちがったものとしてあらわされることはいうまでもない。逆に、貨幣が単に表象されているだけではなく、現実のものとしてほかの商品とならんで存在しなければならない流通手段としての貨幣の機能においては、その材料はどうでもよいのであって、すべてはその量にかかっている。度量単位にとっては、それが1ポンドの金であるか、銀であるか、あるいは銅であるかがが決定的である、ところが、鋳貨にこれらおのおのの度量単位をそれ相応に実現させるものは、単なる数であって、鋳貨自身の材料がなんであろうとかまわない。だが、ただ考えられただけの貨幣にあってはすべてがその物質的な実体にかかり、感覚的に現存する鋳貨にあってはすべてが観念的な数的関係にかかるということは、ふつうのひとが理解していることとは矛盾するのである。
 価値表章の流通では、真実の貨幣流通のすべての法則が、あべこべに、さかだちをしてあらわれる。金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである。商品の交換価値があたえられているばあい、流通する金の量はそれ自身の価値にかかるのに、紙幣の価値は流通するその量にかかる。流通する金の量は商品価格の騰落につれて増減するが、商品価格は流通する紙幣の量の変動につれて騰落するようにみえる。商品流通はただ一定量の金鋳貨を吸収することができるだけであり、したがって流通している貨幣が交互に収縮したり膨張したりすることが必然的な法則としてあらわれるのに、紙幣はどんなにたくさんだされても流通にはいってゆくようにみえる。国家は、その名目内容をわずかに100分の1だけ下まわる鋳貨を発行しても、金銀鋳貨を悪鋳し、そのために流通手段としてのその機能をかきみだすことになるのに、鋳貨名のほかには金属となんの関係もない無価値の紙幣を発行しても、まったく正しい操作をしたことになる。金鋳貨は、あきらかに商品の価値そのものが金で評価されるかぎりにおいて、いいかえれば価格としてあらわされるかぎりにおいてのみ、商品の価値を代表するのであるが、価値表章は、商品の価値を直接に代表するようにみえる。このことから、貨幣流通の諸現象を、一面的に、強制通用力をもった紙幣の流通に即して研究した観察者たちが、なぜ貨幣流通のすべての内在的法則を見まちがえざるをえなかったかがあきらかとなる。実際これらの諸法則は、価値表章の流通においては、ただあべこべにあらわれるばかりでなく、消えさったようにみえるのである。なぜならば紙幣は、正しい量で発行されるときには、価値表章としての紙幣に特有のものでない運動をする一方、紙幣に特有な運動は、商品の変態からは直接生ぜずに、金にたいする紙幣の正しい割合がやぶられることから生ずるものだからである。