「経済学批判」(30)

 a 商品の変態 つづき
 W―G すなわち販売、商品Wは、単に特定の使用価値、たとえば1トンの鉄としてだけではなく、一定の価格をもつ使用価値、たとえば3ポンド17シリング10ペンス2分の1、つまり1オンスの金という価格をもった使用価値として流通過程にはいるのである。この価格は、一方では鉄にふくまれている労働時間の量、つまり鉄の価値の大きさの指数であるが、同時にまた金になりたいという鉄の敬虔な願望、すなわち鉄そのもののなかにふくまれている労働時間に、一般的社会的労働時間という姿をあたえたいという願望をも表現している。もしもこの化体(かたい)が失敗に終わると、1トンの鉄は商品でなくなるだけでなく、生産物でもなくなってしまう、というのは、鉄はその所有者にとって非使用価値であるからこそ商品なのだからである。あるいはまたかれの労働は、他人にたいする有用労働としてのみ現実的労働なのであり、またそれは、抽象的一般的労働としてのみ、かれにとって有用なのだからである。だから、鉄が金をひきつける点を商品世界のなかに見つけることは、鉄または鉄の所有者の任務なのである。だがこの困難、商品の salt mortale《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際に行われるならば克服される。1トンの鉄は、その譲渡によって、つまりそれが非使用価値である人の手から使用価値である人の手にうつることによって、自分を使用価値として実現し、同時にその価格をも実現して、ただ表象されただけの金から現実の金になるのである。1オンスの金のよび名、つまり3ポンド17シリング10ペンス2分の1にかわって、いまや1オンスの現実の金が登場してきた、だが1トンの鉄は退場してしまったのである。販売 W―G によって、価格という形で観念上金に転化されていた商品が、現実に金に転化されるばかりでなく、その同じ過程によって、価値の尺度としては単に観念上の貨幣にすぎず、実際には商品そのものの貨幣名として機能しているにすぎなかった金が、現実の貨幣に転化されるのである。すべての商品がその価値を金ではかったために、金が観念のうえで一般的等価物となったと同時に、いまや金は、商品が金にたいして全面的に譲渡される結果として、絶対的に譲渡することのできる商品、つまり現実の貨幣となるのである。そして販売 W―G こそ、この一般的な譲渡の過程である。けれども金が販売において現実に貨幣となるのは、ただ商品の交換価値が価格という形ですでに観念のうえでは金であったからにほかならない。
 販売 W―G でも、購買 G―W と同様に、交換価値と使用価値との統一体であるふたつの商品が対立している、しかし、商品にあっては、その交換価値はもっぱら観念のうえで価格として実在するのにたいして、金にあっては、それ自身はひとつの現実的な使用価値であるにもかかわらず、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてのみ実在し、したがってもっぱら形式的な、実際の個人的欲望とはなんの関係もない使用価値として実在しているにすぎない。それゆえ使用価値と交換価値との対立は、W―G の両端に極として配分されており、したがって商品は、金に対立する使用価値、つまりその観念上の交換価値である価格を金ではじめて実現しなければならない使用価値であるが、他方、金もまた、商品に対立する交換価値、つまりその形式的な使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである。だが、商品がこのように商品と金とへ二重化することによってのみ、しかもどの極をとってみても、その相手の極が現実的であるものは観念的であり、その相手の極が観念的であるものは現実的であるという、やはり二重の、対立した関連によってのみ、したがって商品を二重的に対極的な対立として表示することによってのみ、商品の交換価値にふくまれているもろもろの矛盾は解決されるのである。