「経済学批判」(28)

 B 貨幣の度量単位についての諸学説 つづき
 労働時間が貨幣の直接の度量単位だという学説は、ジョン・グレイによってはじめて体系的に展開された。かれは、ひとつの国立中央銀行に、その支店をつうじて、さまざまな商品の生産に用いられる労働時間を確認させようとするのである。生産者は、商品とひきかえに公式の価値証明書、つまりかれの商品がふくんでいるだけの労働時間にたいする受領証をもらう。そして1労働週、1労働日、1労働時間等々のこれらの銀行券は、同時に、銀行の倉庫に貯蔵されているほかのあらゆる商品での等価物にたいする指図証券として役だつ。グレイはいう。こういう体制のもとでは、「貨幣でものを買うことがいま容易であるのと同様に、貨幣をえるためにものを売ることがいつでも容易になるであろう。生産は需要の、一様で汲めどもつきない源泉となるであろう。」貴金属は、ほかの商品にたいするその「特権」をうしない、「バターや卵や布地やキャリコとならんで、それにふさわしい地位を市場でしめ、その価値は、もはや、ダイヤモンドの価値以上にはわれわれの興味をひかないであろう。」「われわれは、想像上の価値の尺度である金に固執して、それで国の生産力を束縛すべきであろうか、それとも労働という自然な価値の尺度に転換して、国の生産力を解放すべきであろうか?」と。
 労働時間が価値の内在的尺度であるのに、なぜそれとならんでもうひとつの外在的尺度があるのか? なぜ交換価値は価格に発展するのか? なぜすべての商品がその価値をひとつの排他的な商品で評価し、こうしてその商品が交換価値の恰好な定在に、すなわち貨幣に転化されるのか? これこそグレイのとかなくてはならなかった問題であった。それをとくかわりに、かれは、商品が社会的労働の生産物として直接たがいに関連できるものと想像する。けれども商品は、ただあるがままのものとしてたがいに関連できるにすぎない。商品は、直接には、個々別々の独立した私的労働の生産物であって、この私的労働は、私的交換の過程において脱却する[譲渡される]ことによって、一般的社会的労働であるという実を示さなければならない、いいかえれば商品生産を基礎とする労働は、個人的労働の全面的な脱却[譲渡]によってはじめて社会的労働となるのである。しかしグレイは、商品にふくまれている労働時間をそのまま社会的なものだ、と想定するのだから、かれは、それを共同体的な労働時間、あるいは直接に結合された個々人の労働時間だと想定しているわけである。そうだとすればたしかに、金や銀のような特殊な一商品がほかの商品に一般的労働の化身として対立することはできないし、交換価値は価格とはならないであろう。しかし使用価値もまた交換価値にならず、生産物は商品とならず、こうしてブルジョア的生産の基礎が止揚されてしまうことになるであろう。だがグレイの考えていたことは、けっしてこうではない。[かれは]生産物は商品として生産されなければならないが、商品として交換されてはならない、というのである。グレイはこの敬虔な願望の達成を国立銀行の手にまかせる。社会は、一方では、銀行の形で、個人を私的交換の諸条件から独立させ、しかも他方では、同じ個人に私的交換の基礎のうえで生産をつづけさせる。グレイは単に商品交換からうまれた貨幣を「改良」しようとしたのにすぎないのだが、内面的に首尾一貫させるためには、かれはブルジョア的生産諸条件をつぎつぎに否定してゆかざるをえなかった。こうしてかれは、資本を国民資本に、土地所有を国民的所有に転化させる、そしてかれの銀行をよくよく観察すると、それは一方で商品をうけとり、他方で提供された労働にたいする証明書を発行するだけではなく、生産そのものを統制していることがわかる。かれの最後の著述である『貨幣についての講義』で、グレイは、小心翼々としてかれの労働貨幣が純ブルジョア的な改良であることをしめそうとつとめているが、それだけますますひどい矛盾におちこんでいるのである。
 どの商品もみな直接に貨幣である。これこそグレイの不完全な、しかもそのためにまちがった商品の分析からみちびきだされた理論であった。「労働貨幣」と「国立銀行」と「商品倉庫」との「有機的」くみたては、人をあざむいて、この独断を世界を支配する法則だと思いこませる夢想にすぎない。商品が直接に貨幣であるという独断、あるいは商品にふくまれている私的個人の特定の労働が直接に社会的労働であるという独断は、ある銀行がそれを信じそれにしたがって営業するからといって、真実になるものでないことはいうまでもない。こういうばあいには、むしろ破産が実践的な批判の役目をひきうけるであろう。グレイの考えのなかにかくされており、ことにかれ自身では気づかずにいたこと、すなわち労働貨幣というものが、貨幣から、貨幣とともに交換価値から、交換価値とともに商品から、商品とともに生産のブルジョア的形態からのがれようという敬虔な願望を、経済学的に表現した空語であるということ、そのことは、グレイに前後して著述した二三のイギリスの社会主義者たち(秀註=タムソン、ブレイら)によって率直に言明されている。けれどもプルードン氏とその学派は、貨幣をおとしめ商品をもちあげることを、社会主義の核心であるとして大まじめに説教し、そうすることによって、社会主義を商品と貨幣との必然的な連関についての初歩的な誤解に解消してしまうことを、いつまでもやめなかったのである。